気楽に暮らしたい。

シンプルライフと日々のグダグダ。

一旦、隠居終わり。

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久しぶりの学生生活が始まりました。
思いのほかプレッシャーをかけられることも多いのですが、クラスの方がみんな良い人ばっかり!

 世界ってこんなに優しい人ばっかりだったんだ〜と拍子抜け。最近は高畑充希ちゃんの歌声が癒しで、忌野清史郎さんのカバーのデイドリームビリーバーを聞いて涙してみたり。

物の断捨離に続いて、一番やりたかった心の整理もだいぶ終えて、こころのあかや黒い物もだいぶ落ちた感じがします。

隠居したから、物を捨てたから、変わったという訳ではないけれど、1〜2年前よりだいぶ良くなった気がします。

このブログの説明をみると、不幸な私を変えたくて〜みたいなことがかいてありますが、以前はずっとモヤモヤして、不幸だと思ってました。

「どうせ幸せには生きれない!ほら見たことか!」とそんな目で世界を見ていました。

幸せな世界に私がはじかれたのではなく、私が勝手に「一人で頑張る不幸な私」バリアをはってしまっていたみたいで。

「世界は最悪なところ」カメラマンになり、課題の分離ができずに世界中の悪いことを探して回って他者の課題で勝手に怒り…。

また、「自分の幸せ」ではなく、人から見た幸せ(大嫌いな祖父母に言われた)と照らしあわせて私にはあれはないこれはない…と思ったり、幸せなはずなのに何か違うと悶々としたり。

以前は原動力が怒りとか、反抗心、劣等感的等が強かった気がするけど、今は軸が自分に戻ってきた感じで、今後は「修行僧」的な暮らしではなくて、ゆるく楽にやっていきたい。

本を読んだり、児童福祉をやってる方のブログを読んだりしてると、うわー!これ、私だ😱と子供の問題行動の事象にギクリとしたり。

社会やまわりのせいではなく、「私がすねてた子供だった」それだけのことだったんじゃないかと。

お母さんにすねたまま大人になって、それを認められず、すねた気持ちの対象が会社となり、彼氏になったり、していたのかな〜とか。だから、変わるのは、職場や住む場所、自分自身というよりは、私が世界を見る目を変える。

そう考えると、ありがとうとか、ごめんねとかそんな気持ちが溢れてきます。自分にも、周りにも。なんで?どうしてと思っていた人にも愛してくれていたのに、ごめんねという気持ちが溢れてくるから不思議です。

アドラー心理学の本を読んで、「特別に良い」を目指してそうなれなかった人は、いわゆるヤンキーみたいな「特別に悪い」存在になろうとするというのを読んで、あはは〜と吹き出してしまいました。

勝手にあれこれ人と比較して、自分は特別に幸せじゃないと思いこみ、特別なもの…例えば、「いつも片付いているお洒落な部屋」「オーガニック」「極端にものを持たない」「すごくこだわって作られた⚪︎⚪︎」とかが必要だったのかもしれないけど、これからはどっちでも良いや❤️と思っています。

今後目指すのは、特別な幸せや、特別な自由、特別に素敵な生活ではなくて、普通でゆるくて、自分や友達や家族をほどほどに大事にする暮らし。

ディズニーツムツムやって一日が終わってしまったとか、休日は友達と近所のファミレスでお茶して終わり〜、あー楽しかった❤️というような。

今日1日の感想は、眠かった、とか、梨が美味しかったとか、もしくは1日の感想は特にないような。

みんなも、私も、楽で楽しいほうを選べれば、なんでも良いや。その時に、すきなほう。

アドラー心理学の本や心屋さんの本を読んで、自分は幸せじゃないと思ってたのって、私がすねてただけ?と思い、騙されたと思って、前提を変えてみることにしました。

「世界は優しいところ」「そのまんまで良いけど、好きなことして、嫌なことやめても良い」「どうせ幸せになれるから大丈夫」そんな事を前提にしたら、優しい人ばかりが周りに現れるようになりました。カラクリは、私が切り取る瞬間が変わった。とてもシンプルで。

明確な正解がわからないことは、自分が好きなほうを選んでみる。頑張って新しい武器を得る必要も、何かと戦う必要も、変わる必要も無いし、ゆるゆるしておこう。

あいつー!とか、振り向いてもらえなかったという気持も、ずっと夢みさせてくれてありがとうと置き換えると、ポロポロ涙が出てきて胸のつかえがとれたり。

言葉や世界は、角度次第ですね。おもしろ。