気楽に暮らしたい。

シンプルライフと日々のグダグダ。

頑張るほうに、流されがち。

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集団の中にいると、いろんなことが起きます。
 
で、そんな中で、つい、頑張るほうに流されてしまう自分に気がつきました。
 
体がNGの信号を出しても、頑張るのをやめたいのに辞められなかったり。何でなんだろうと思っていたけど、しんどいもう無理と天秤にかけた時に、頑張るほうが楽だと判断していることに気がついた。
 
現状維持だから、環境を変える後始末も不要なあげく、頑張るって「最強の免罪符」だったからなのかもと。
 
頑張ったけど、成果が出ませんでした。
頑張った。けど…。
 
成果が出なくても、頑張ってるんだから、まあまあ、責めないでやってあげなよ。頑張った自分を褒めてあげたい。
 
頑張れば、負けたとしても責められない。不思議な魔法です。
 
逆境に耐えて「頑張る私」は自分を守ってくれる鎧みたいなものだったのかも。幸せというゴールがやってきたら物語が終わってしまうから怖くて手を出せない。
 
頑張る私物語には、役者(嫌な奴)や小道具や設定(嫌な仕事、嫌な会社)が必要だったから、嫌だと思いながらも、あれもこれもあの人も手放せず、変わりたいのに変われないの蟻地獄状態だったようです。
 
世界が嫌な場所だったんじゃなくて、私がすねて面倒臭いやつだった。私が世界は嫌なところの証拠集めをし、どこに行っても同じだとあきらめてしまった。
 
(自分的には)辛くて嫌な仕事、(自分的には)納得できない待遇、(自分的には)大事にしてくれないパートナー。(自分的には)むかつくいやあいつ。丁寧な家事(を頑張る私)自然食(を作って頑張る私)
 
ナチュラルなライフスタイルは好きなら良いのだけど、知らぬ間に社会への後半の道具にすり替わっていたり。目的は何か?
 
「自分的には」の部分は自分にとってはそうでも、他の人にはそうじゃなかったり。解放してあげよう。ほんと。
 
そんな役を引き受けてくれたくれた人や物事もたち。ごめんね、こんな役割を押し付けてしまって。
 
次は、「たまには頑張る、そこそこ幸せな私物語」劇団あたりをやりたい。人から見ればなんてことないけど、当人達はキャッキャッと楽しそう。仕事も自分に合っていれば良い。家事が面倒くさくなったら冷食のキムチチャーハンなどを食べ、クーラー最高とか思いながら、ソファでゴロゴロ漫画や本を読み、パートナーには適度に甘え、感謝。1日の感想は眠かったとか、あのカップラーメンまずかったとか、セブンのスイーツ美味しかったとかそんなもんで良い。でも、今日みたいな日が、明日も明後日も続くと良いな〜みたいな。
 
これまでは、幸せも、反抗の道具や鎧にしようとしていたような。そりゃあ、幸せになれるわけないわな。
 
頑張る私物語をこじらせると、天然で愛される人とか、自分を保って生きている人や、環境が恵まれている羨ましい人を、頑張っていないずるい人にすり替えて悪者にだってできます。
 
すごい、羨ましい、コツを教えてもらって私もああなりたい、仲良くしたいで良いのに。
 
そもそも、「負けを認める」と言うことは、たんなるラッキーな気づきなのでは…。
 
私はこれができないのか!じゃあ得意なところを伸ばそう、という。
 
とりあえず、学校の勉強は淡々とやり、家では文明に甘えて、楽に楽しく!